くらしのたねまき シンポジウム vol.1

REPORT

【人を繋げる空間づくり】

彼がつくっているものがいろいろあるんですが、すべて廃材をリサイクルして使っています。(写真を見せながら説明)屋外、あえて屋根をつけないところもあれば、雨をしのげるものがついてるものもありますけれど、これを自分の住んでいるところの近くでやり始めたんですね。こういうものをつくって、とにかく人を繋げる空間にしたいということで、近隣の人たちを招いて、とにかく交わるということを起こし始めました。

そういうふうにリサイクルのものでつくった屋外と屋内が繋がっているような場所が、近隣の人たちの中で癒しというか、あそこに居たいねというようなお気に入りのスポットになって、いろんな世代が集うようになりました。

アメリカの習慣でポットラックという、一人一品ずつ鍋に料理を作って持ってくる、持ち寄りの料理を食べるパーティー、そういうものが企画されたり、ちょっとふらっと近くに寄ったから立ち寄るというような場所になっていったり。

別に料理を持ってこなかったら参加できませんというようなことではなくて、料理を持ってくる人もいれば、自分は音楽が得意だからギター持ってきて弾いてその場の雰囲気に貢献するということが起こり始めたり。

料理につられてやってくる人もいる、楽しそうに話をしている笑い声が聞こえる、音楽が流れて楽しそうだということで、何が起こってるんだろうということで、その音に引き寄せられて人がなんとなく入ってくる。我々も近くで見ていて、この場の成功ってなんなんだろう? というふうに考えるわけですけれども、結局すごくシンプルなことだな、シンプルだけれども見逃されがちなことだなと思います。

やっぱり人間というのは本質的に、意味ある他者との繋がりを求めているものだと、それは誰しも心の底にあるものだと思っていて、そこに触れるような場所になったからだなと。そこを忘れ去っているのか、そこに触れるのが怖くて敢えてそれに気付かないふりをしているというのが多くの我々なんじゃないかなと思います。

やっぱり社会人としてとか、大人としてっていうものが、自分の生き方に大きな影響を与えるわけですよね。大人になればなるほど、歳を重ねれば重ねるほど、ちょっとした笑い声だとか、遠くから聞こえるみんなの楽しそうな音がなかなか日常で聞かれないというようになってきている。

幸せだとか楽しさばかりが価値と言うつもりはないけど、やっぱりある瞬間瞬間、楽しく笑えたり楽しめたり、心地いいなと思える瞬間があったら、それは人間の本質で誰もが求めていることで。それをどう開発していくかということでいうと、自分の子供の頃にいっぱいヒントがあるだろうと思います。

全然笑っていいんですよね。人生って、日常って。泣いてもいいし、オナラもするしゲップも出るでしょ。すべてそうしていい。それってめちゃくちゃ当たり前のことだけれども、もう一度忘れたものを思い出してもらいながら、もう少しリラックスして考えようよ。そして少しリスクを取ると……これも、こういう場所もちょっとリスクですよね? 人が来ないかもしれないし、批判されるかもしれないし、でもこれをやったこと、参加したことのリスクってなんだろう? 疲れ果ててその日はぐっすり寝てしまうというリスクはあるかもしれないけれども、それぐらいのリスク取ってもいいんじゃないのかな?

今、何か心の穴のぽっかり空いた、本当には満たされないもので心を埋めようとする現代社会の描写があったりしますけれども、だけれども本当の温かみのある、体温のある人との繋がりって、その穴を着実に埋められるものだと僕は思っていて、最初はそれを求めたり提供したりすることはリスクがあるかもしれないし勇気がいることかもしれないけれども、一回そこに関わってみると、垣根がなくなっていって、楽になって、次は簡単にそこに参加したり提供したりできるようになるものなんだろうなと思っています。

●通訳さん/(写真を見ながら)これは私有地に建てたものですけれど、普通こういう構造物を建てる場合は行政に許可をもらわないといけないものです。で、彼らが、マークたちですね、これを建てるにあたって許可をもらったかというと、もらってません。勝手にやっちゃったという。

●マットさん/なので言い方によっては違法行為であるけれども、ポートランドの精神で言うと、もしかしたら法律上は違法とカテゴライズされるものかもしれないけれど、あるべき方向、進むべき方向、みんなのためになる方向の行いだよね、ということでやっちゃう。

【コミュニティーは自分たちでつくれる】

この場自体が大切な役割を果たしたわけですけれども、もう一つ大事な役割がありまして、これがシンボルになって、こんなことやってもいいんだ、こういうこともできるよね、という象徴になった。

ここでは特別な催しはしないんですね。ここにはただソファーがあって、座って、お茶が飲めたりする、人がいておしゃべりできたりするだけなんだけれども、知らない人が最初は一人で飲んでたりする、そうすると横に同じような人がいて、始めは話しかけないんだけれども、たまたま隣にいるから少し話しかけてみる、こんにちはと言ってみる。そうすると最初は深くない話から始めるんだけど、ちょっとした共通点を見つけて、え??? みたいな。「実家すごい近いですね」だったり、「その音楽好きなんですか?」だったり。

その繋がりって目に見えないですよね。だけれども、すごくリアルなものだと僕は思っていて、それが人と人との繋がりというものの重なり、それをどんどん強くしていく。なので町内会や、コミュニティーですね、ローカルのコミュニティーを毛布だとすれば、縦糸、横糸ありますけれど、それをどんどん重ねていって、強度のある毛布、布にしていくっていうことになるんじゃないかなと。

これは行政に指摘されたら壊さなければいけない建造物かもしれない(結局壊さなくてよかったんですけれども)。ただ何が起こったかっていうと、「やっちゃった」んですね。やっちゃって人も集まり始めたっていうことで、行政が気付く頃には、もういろんな盛り上がりが起きちゃって、今さら! みたいな流れになっちゃってた。

繋がりも起きているし、変化も起きちゃってる。あ、自分たちがつくりたいと思っているコミュニティーって自分たちでつくれるんだなって一回信じちゃうと、行政がいかにルール、ルールって言っても止められないようなところもありまして、違法かもしれないけどやっちゃったっていうリスクが、いろいろな可能性を開いたという一例かなと思います。

【交差点は誰のもの?】

マーク・レイクマンはこういう取り組みを始めて、都市の成り立ちとか人類の歴史などを見ていくということをしました。で、建築の学部に行くとそういうことも勉強するんですけれども、そこで現代都市よりも前からあった人々の暮らしの風景に触れるわけです。

townとかvillageと呼ばれたような村、町とか。日本でもそうだと思うんですけれど、村という単位があってそこの間に道ができて、交差点という道が交わる場所がある。すなわち人が交わるということで、そこが中心となるハブとなり、そうやって市場だったり、お祭りが開かれたり、いろんなお祝いごとが開かれたり。

そこで地域の人たちが集まる、触れ合う、知り合うっていうようなすごく原始的な自然なかたちだったわけですが、自動車というものがこの社会に現れて、それがなくなっていったということを彼はあらためて知るわけです。

交差点は人々の集いだとか暮らしのための場所だったんだけれども、自動車が使える暮らしを中心にいろんなルールだとか都市整備がなされていて、「車が通るからそういうことをしてはいけません」と、できないこと、してはいけないことが交差点においてたくさんできていった。

もともとそういうところに集まって繋がりをつくっていた人が、それができなくなっていったんですけれども、ポートランドのみなさんですね、かなりこう、ちょっとしたワイルドな心がありまして、いやいや俺らの場所だから! 俺らの地域だから! と、こういうことをしちゃいました。

【交差点ペイントがもたらした町の変化】

どういうことをしたか分かりますか? 交差点の路上にアートと呼べるようなお絵かきをしたのです。で、これはみんなでつくった後、やったね! っていう完成図なんですが、手を繋いで高々と上げていますが。で、これも違法行為ですね。なんてことやっちゃったんだ! やっちゃいけないですよ! と言われるわけですけれど、でもやっちゃったから……。

行政としては、なぜだ? なぜこんなことするんだ? と。で、一番最初にやったコミュニティーの人の中に国連の職員がいまして、彼は国連の調査、リサーチャーでいろんな疫病の伝染とか人の動きとかを学術的にリサーチをする人間だったんです。で、いろんな疾病がありますけれども、熱中症の時に一番亡くなるのは高齢者なんですけれども、高齢者だけではなくて孤立している人が亡くなるんです。

なので、孤立って孤独とか精神的な問題なだけではなくて、本当に人の死とか、コミュニティーで言えば人々のwell-beingに繋がる。ということで、国連の疾病のリサーチをしている観点からも、この交差点に絵を描くっていうことは意味があるという角度で話しまして。

これをやった時に、みんながいろいろな作業をして繋がりを持つっていうことが一つあったわけですけれども、他にもたくさん新しいことがあって、まず車が前よりもゆっくり走るようになった。これってこのコミュニティーにとってはすごく大きな意味を持っていて、なぜかというと、少し前に子どもが2人、交通事故でこの近くで亡くなっているんですね。彼女たちが道路を渡っていて、車にはねられて亡くなっているんです。そういう経験もしているコミュニティーにとって、車が自分たちの近隣をゆっくり走るようになることはすごく大きな意味を持つんですね。

もう一つは、絵を自分たちの象徴として、自分たちでデザインを決めてやるんですけれど、それによって、ここへの帰属感、自分のコミュニティーに対するプライドとか愛着、帰属感というものが生まれた。

また、窃盗とか犯罪、軽犯罪が減ったというデータが出たり。考えてみれば、行政というのは、人々の暮らしを良くしようとしていろんな問題の解決に取り組む。そういったトピックも彼らの懸念事項なんですよね。

そういったことに関して、道路をペイントするということが、そんなにお金もかけずにいろんな問題を解決するということが分かってきたんですね。で、行政側は、これ金銭負担ゼロです。住民が勝手にやったことなので。結局、違法だというお咎めがあったわけですが、そういったデータもあって、行政も「分かりました」と。承認しますと。それは彼らが折れたということではなく、彼らにとっても非常に懸命な意志判断だということです。

ルールに則ってやればよしとしますよ、ということになりました。どういうルールかというと、交差点って4区画あるんですが、その4区画全部が合意すること。そしてここから派生する4方向、8方向にあるわけですが、そこの住民の80%がYESと言わないとやっちゃだめですよと。そして塗装ペンキは道路用で、環境負荷の低いものにしなければいけませんっていう3つ。

後はデザインはチェックさせてくださいと。不適切なものにはならないようにっていうことで、この4つのルールが提示されたわけですが、結局行政も認めるかたちになりました。

最初は違法で始まったけれども、ここにも大きなヒントがあるなと思っていて、行政がそうして認めてくれたことによって、他のこともいっぱいできるようになったんですよね。結局これを1個やったことによって、あ、こういうことも可能なんだ、じゃあもっと違うかたちでも自分の町内でできることってあるかもしれないって、ここにとどまらずいろんな行いが展開していくことになります。

で、できた繋がりをもっといいものにしていくこと、継続的にどんどん展開できることっていっぱいあるよねということで。いくつか生まれたものをお見せしていきます。

【みんなの工夫で変化していった交差点】

交差点では図柄一つですけれども、4区画は4区画でABCD全部アイデンティティーがあるわけで、それぞれ角をどうするかっていういろんなアイデアが出てきた。あのペイントは毎年、みんなが集まってきれいに塗りなおしたりするわけですけれども、そのタイミングに合わせて、じゃあ他にももっとできることがあるよねということで。

何か取り組みがあった時に、その取り組みだけで終わるのではなくて、次は何しようということを話していくと、どんどんそれが蕾になって、花開いて、展開していく。これはどうやって生まれたかというと、交差点でみんなが集まるようになったのはいいと思うんだけれど、高齢の方も多くて、来るのはいいけど座るところがない、遠くまで歩くのはすごく大変だよねという会話が交わされて、一つの区画が「ベンチつくろうよ」と。

高齢者のためだけじゃなくて、小さい子も含めて、老若男女が座れるようなものをつくるというのが始まったんです。それも行政に頼むんじゃなくて、どこかに施工を頼むんじゃなくて、市民が、近隣の人たちが勝手につくったんですね。かつ、お金をかけないで、リサイクル、廃材を使ってやろうよっていうことをやったんですね。

せっかくつくるんだったら意味を持たせようよっていうことで、先ほど言ったこの交差点で交通事故で亡くなった女の子に捧げるというかたちで、彼女を意識してつくろうと。天使というイメージでつくった。

ベンチが一つ一つ羽根になっていて、ここに天使の顔があるみたいになって。そういったかたちで、作業としてするのではなくて、意味づけをしながらやっていく。自分たちのコミュニティーの子供たちを守るというような意味合いも込めて、ベンチをつくるということをしました。

あと、みんな好きなものといえばお茶、24時間お茶が飲めるティースタンドをつくりましょうということで、ベンチの横にお茶が常に用意されている交差点。誰でも飲めます。

で、これは中にいつも温かいものが入っているように、担当しているのがこの角のお家に住む方でして、お茶がなくなったかな~と思ったら満たしにいくという。あとは、伝言板をつくろうよって考えた区画もある。あと子供が紙芝居とかちょっと遊べるようなところをつくったり。ちょっとランチ食べたいなっていう人が食べられるようなスペースをつくったり。

先ほどもおっしゃっていましたよね、子供が関わることが大事だって。子供が関わると大人が関わってくるというのもそうだし、子供自身がつくることに参加するとすごく大事にするんですね。だからいたずらをして壊すということもなかったりとか。

【シティ・リペアという考え方】

で、これって交差点に限らなくても大きい単位でやっていいよねっていうところまで発展していって、移動式のモバイルティーハウスをつくろうということで。これがあればいろんなところに持って行って公園だとかイベントだとかできるよねということで、これも単純なデザインではなくて、みんなが「これなんだろう」って近寄ってくるような、ちょっと面白い形にデザインにしました。

遊び心満載。かつ、それが機能性もあって、羽根が雨除けにもなり、非常にみんなの人気者になりました。みんなの集う場。これも、マーク・レイクマンがつくった集いの場の発展形ですよね。あれは固定の場所だったけれども、あれをモバイルにしようよという。だからすべては繋がっているんですよね。

先ほども話に出てましたけれども、カフェでただで振る舞うっていうのも、べつにここでお金儲けするんじゃないと。誰でも来れるようなかたちでということで、このモバイルティーハウスはお茶を出しています。

やり方とか展開の仕方も、クリエイティブな無限の可能性があると思います。交差点でできることとして、24時間お茶と言いましたが、もう一つよくあるのが、図書館ですね。要らなくなった本をそこに置いていって、誰でも持っていって読んでいいよというようなのが左側ですね。

あとは、交差点で開催する、日本で言うと紙芝居のようなちょっとした指人形ですね、近隣の子供たちにパフォーマンスをする。これぐらいになったら行政も認めるようになっているので、この日は行政側が許可を出して車を止めて歩行者天国のようなかたちになって。そこでいろいろ子供を喜ばせるような催しをすると。

これがシティ・リペアという、リペアって直す、修復するという意味ですけども、こういうプロジェクトがいっぱいあって、交差点でのこともその一つです。

【レジリエントな(回復力のある)地域をつくる】

せっかくなので、みなさんにヒントのたねをお渡しできるようにということで。自分の敷地と隣の人の敷地という、私有地というものがありますけれど、もうちょっと視野を広げて、自分たちの区画をみんなで考えた時に、何か可能性がないかなと。

先ほども言いましたが、互いに支えられる、互いに必要な時に手を差し伸べられるような繋がりを持つためには、どうすればいいだろうということで。このようなことって、やるプロセス自体が楽しかったり、そこで繋がりが深まったりするんですけれども。

それぞれ自分の私有地があるけれども、こうやって区画で考えた時に、境界線で「ここはウチ」って考えないで、みんなでそこを提供しあって、できることがあるかもしれないということです。

そうすると、プロセスが楽しいとか繋がりが結べるとかだけではなくて、何かが起きた時に普通にお互いのことを分かっていて、あるいは躊躇なく助けを求められる、あるいは手を差し伸べられるというような、すなわちレジリエントな(回復力のある)地域になる。

ということで、正解はないわけですけれど、やっぱり広がりを見せるようなステップ、歩みってあるなということでまとまっているのがこれです。今、こういうことを同時多発的にやって、町中がこういうプロジェクトでいっぱいになるというのをポートランドでやっています。

ポートランド全体での、こういった地域ごとの取り組みを組織しているNGOがあるんですけれども、別に何かやってあげるというのではなくて、自分の地域で何か起こすために必要なスキルみたいなものを、その人たちに教えるわけです、何かをつくるだとか、何かをリーダーシップするとか、ファシリテートするとか。そうすると彼らが自分たちのアイデアで勝手に行う。

何か型の決まったものを展開するのではなくて、その地域に暮らすその区画に暮らす彼らがやりたいことだったり、大事することだったりがきちんと反映されるということが大事です。リユースだとか、自然由来の素材を使うというのはすごく大事なプロセスだと思うし、なるべく多くの人を平等に巻き込んでいくということも大きな成功の原則としてあるかなと思います。

住んでいる人たちにすごく大きな意味を与えているようなものも数多くあって、これは直近で亡くなったその地域に住んでいた高齢者の方を思ってつくったデザインです。いろんな交差点あるけれど、デザインが違うんですね。そのデザインは誰か外の人が与えるものではなくて、必ずそこの住人たちが考えるもの、その人たちのアイデンティティーを前に出したものです。

これらはずっときれいなままじゃない、消えていくし。けれど、消えていって塗り直さなきゃいけないっていうのがまたすばらしくて、これを毎年塗り直すということがその地域、その町内、その区画の伝統だったり行事になって、みんなをもう一回集めている。